昭和56年11月18日 月次祭
驚きと喜びという事は、(?)生き生きとした信心生活とは、日々が有り難いと恐れ入った生活が出来るようになる事だと思うんですね。もう日々が恐れ入った生活、有り難い、いわゆる信心の喜びと驚き。
そういうおかげを頂きたい。お互いの(?)物は(?)願い、想いがございますけれども、その願いが、思いが願いどおりに思い通りに、えー、成就していくという事はどんなもんでしょうか。思うとおりに、ま、事が運んでいったりなるという、ちょっと有り難いようであって有り難くない私は気が致します。
そこには、もう当然の事となってしまって驚きも無からなければ喜びすら段々薄らいでくるのでは無いかと思います。ね、ですから信心を頂いて、例えば今日も朝から色々お届けさせて頂きましたが、本当に難儀な問題が解決したとか、病気が治ったとかおかげを頂いて、えー合格できましたとかという様なお届けがありましたがね。
いうなら願い通りのおかげを受けられたわけですけれども、ね、そういう願い通りのおかげを受けられたからなら全て何事も願い通りに思い通りにという事は無いし、また無い事がおかげであると分からせてもらう。ね、とにかく日々が恐れ入った。
本当に恐れ入ってしまうとこう喜びが、恐れ入った生活ができる事の為にもその辺のところを一つ分からせてもらわなければならん。限りない信心の精進をそこに求めさせて頂かなければならない。
もう3.4年も前だったでしょうか、今丁度相撲が福岡場所ですよね。いつもご案内を頂きますから、まさき(マサキ)先生としげお(シゲオ)(?)さんと私といつも3人で参ります。ある時のとき、丁度少し早めに行きましたから重量の所から見せてもらいました。
そしたら神様が今度は右のほうが勝つ、左のほうが勝つって度々教えて下さるんです。教えて頂く通りなんです。それからいよいよあの、幕内ですかねが相撲が始まりましたら、ピタッと神様が教える事をなさらなくなったんです。
どうした事であろうかと思うて神様にお願いさせて頂いたらね、せっかく相撲を見に来ているのだからね相撲が面白い、楽しいものにならなければならない。(?)にはもうどっちが勝つこっちゃ(?)分かっとったら面白無かろうがと言われるような事を頂いたんです。
確かにそうです。ああどっちが勝つか分からん、どっちじゃろうと思うたら反対の方になったという様なですね、だからこそ、その相撲が面白いんです。私どもの生活においてもそうです。願い通り思い通りに(?)なったらもうこんなにいうならば興醒めた生き方っていうものは無くなってくるかも分かりません。
思う様になったりならなかったり、ね、そこから私どもの向上もありゃあ信心でいうなら信心がいよいよ深く広くもなっていくという事でございます。ね。本当に日々が恐れ入った生活、有り難い生活を目指さして頂くという事。今日は私どもの孫の孫たちの遠足がございましたようです。この頃の遠足は、まいうならバスで何処へ色々参りますけれども、今日のは歩いて行かなきゃならない。1年生が今日は吉木の山の中腹にあります(?)遠足で参っております。今日は、帰ってまいり、3時ごろ帰ってきましたから今日は面白かったろうっちゆうたらきつかったっち。
もう足がいとうして足が上がらんごとあたっちいいます。そうでしょうね。やっぱり随分ありますし、しかも山手ですから、高い(?)登っていかなならん。
そいでいつも私のところへやって来るんですけれども来ませんから、あのそこを下がってから、恵城がどうしよるじゃろうかというて、あの、帰ってから直ぐ今日は村内に手習いの、あの習字の先生がおられるから習字の稽古に行っておる。
もう、習字の稽古に直ぐ行きましたよっち。まあ子供じゃんね(?)と言うた事でございますけれどもでも、やっぱり稽古事っていうのはそういうものがいるようです。ね、もうきついから今日は眠たいからという様な事ではなくて、ま足が上がらんように痛いけれども痛かったけれども、やはり今日は習字の時間であったからもうそう直ぐ習字のほうへ行ったとこうやって(?)ね、いうならば、あのそのお稽古することが楽しくなってきたんです。
ね、ですからね、あの信心もやはりそういう稽古の楽しみと言うものができて参りますと、ね、朝参りなら朝参りという事でも、ね、夕べ遅かったから眠かったからじゃなくて、眠かった夕べ遅かったけれどもやっぱり朝参りが出来ておる。
ね、そういう様な私の信心が身についてくるという事であります。せんだって、ふくじん会(?)がお商売人の方たちばっかりのまあ、いうなら共励研修ですけれども、最後に秋永先生がお話しておりました。
お互いがこの修行修行と言う事を言うけれども、修行修行と言うておる間はほんなもんじゃないって。ね、修行をどんな修行でいうならどんな修行であってもそれを修行と感じん、くらいなまあ修行じゃなからなきゃいけない。
私は親先生といわゆる一番昔のある修行(?)の時分から知っておるが、どんな場合であっても親先生の場合には修行と感じておんなさらなかった様に思う、という話をされました。
私もそれを聞きよってから思いました。本当に自分の過去何十年間の信心を思うてみて、本当にその、まあ、どうしてこんな貧乏せんならんだろうか、どうしてこんな修行をせんならんだろうか、本当に苦し紛れに信心をさせてもらっておる思うておるという事無かったようにある。
いつの場合であっても確かに有り難かった。ね、そうしていく信心からなら段々おかげを頂いてまいりまして、もうその時その時がいうならば夢にも思わなかったようなおかげであった。ね、とにかく恐れ入った毎日であった。
ね、それできついとか苦しい事が無いかというと無いけれども、それを本当にどうしてこんな苦労を修行をと思うた事が無かった。はあもう修行と思うておりますという間はだから本当の修行では無いという訳なんです。ね、というくらいにやはり打ち込んでおったんだと。
足は痛くてあがらんようにあるけれども、今日はお習字の時間だというてまた走ってそのお習字の稽古に行くそういう様なものがね、お互いの信心の稽古の中にはいるようです。
ま確かに、うん、これ以上の理由は無かろうといったような金銭のうえでも修行させて頂きましたが、もう本当にその、やはりお礼でしたね。もう例えばいよいよ商売が出来なくなってもう少しばかり残っておりました、ああ商品を持ってまあ福博の町をこう売ってまわりました。
ま大変寒い日に雪解けの福博の町を一日中歩きました。神様にお伺いをしながらお伺いしお伺いし、角にたっては右に左にと神様が教えてくださるので、神様の言われるとおりにしてこの家に寄れといわれるからやらせてもらうといったような一日でした。
神様は確かに寄れというて下さるところに寄るとですね、まあそんなら貰いましょうか頂きましょうかという様な事になってくる。はあ、おかげ頂いとるなあと思うて裏に金を取りに(?)すると丁度金が無かったとか何とかでやっぱ見合わせましょうといったようなまあ日々でした。
これはもう本当にま、そん時確かタオルをこう一抱き持っておりました。タオルを売るのですだけれども、一筋のタオルも売ることが出来なかった。そして重たい足を引きずるようにして帰ってまいりましてから、もう足はもう汚れた靴がこうくちゃげとりますから、その雪解けの水で中がもうビチャビチャですよね。
それで、脱いで手足を洗うてご神前に出らして頂くともう途端にですね、それこそ滝のようなありがた涙が流れよりましたからね、不思議です。はあ苦しかったから(?)どうしてああゆう有り難涙がこぼれただろうかとこう。
ね、で今日もまあ結構の修行をさせて頂いて有り難いという様な、そのまあ、そういう日々でございましたけれども、ね、その時分から(?)よく知っておられます。ね、そういう中に例えば(?)とか苦しいとかという事ではなくて修行をしようと感じてなかった。
そういう様なね、えー、いうならば心の状態というのは何処から開けてきたのだと皆さん思われますか。ね、あれほどま、ま大坪さんのおかげ(?)はずは無いといくらいな様な信心させてもろうて、そうした結局今から思うてみますと、信心が有り難かったんですね。
信心が一歩ずつでも進んで行っておるのが自分で感じられるのが有り難かったんですね。ね、おかげを頂くから有り難かったというのじゃない。信心が身についていっておった血肉になっておった。そのことが有り難かったんです。
此処には信心の稽古に来るところ、何時どのようなとき何処でどういう事があるやら分からん。おかげは我がうちで受けよと。ね。と言う風にこう仰られます。此処には信心の稽古に来るところ、その稽古が今日はお月次祭だからお参りしなければならん。さ、夜遅かったけども朝参りしなければならん。
とね、お参りをしなければならんというときにはやっぱきつい。けどもそれがね、当然の事というかなあ、うん、いやまた稽古させて頂くとうい事が楽しゅうなってくる有難うなってくる。今日はどういう御理解頂くだろうかと例えば信心の稽古させて頂く事が楽しゅうなってくる。
というときにです、例えばそこに難儀があっても苦労があってもね、これをどう頂く事が合楽理念に基づく生き方かという風にちょっとね、頭を使ってみますとね、実験が出来る。その事を思って信心の稽古が出来る。そこから生まれてくる実証は願い通りとか思い通りという事ではなくて、もうそれこそ願い以上思い以上のおかげが頂けてくるようになる信心生活。
またそういうおかげを頂いていただきたいと。ね、願い通りじゃない、ね、お願いがお願い通りにおかげを頂いたというときには大したおかげじゃないと仰る。お願いしてもお願いしても右と願えば反対に左になるといった様なときほど大切にせよと。
そういう時には氏子の願いが成就しないとき、していない時には神の願いが成就しておるときだからと仰るんですよ。ね、私どもの願いがね、引けども押せどもおかげにならないどころか反対になっていくという時には、いよいよ神様の願いが成就していっておるときという事がこう段々分かってくるんです。
理屈じゃなくて。だからそこに修行が修行じゃないようなそれこそ滝のような有り難涙がこぼれるようなそういう中にあって有り難い内容の信心が培われていくのでしょう。ね、そしてです、願い通りにおかげを頂いていけれるようじゃなくてね、それこそ願い以上思い以上のおかげがです。
ね、頂けてくるようになる、表れてくるようになる。いよいよ驚きである、信心のいうなら驚きと喜びに、ね、浸らせて頂けれるような信心をさせて頂きたい。昨日の朝のご理解に、合楽の目玉商品という事を頂いたんです。
言うならここに合楽デパートというデパートがあると致しましょうか、そこにはいつもね結局客寄せのような目玉商品が用意されておるわけなんです。皆さんどう思うですか、合楽の目玉商品。昨日私、研修の時に先生方1人1人に聞いてみたんです。さあ皆そのやっぱり合楽理念のもう本当に言うならば、こう覚えておるマスターしておるという事だけは言えると思うんです。もう合楽理念のもう言うなら肝心な勘所と言うのは皆がまあ合楽の目玉商品と言うたら泥の心成り行きを尊ぶ、ね、天地日月の心になる事。
と言ったようにです。もう、合楽で日頃頂いておる信心を皆さんそれぞれにそれが言うなら合楽の特徴というかね、合楽の芯どころというものが目玉商品と言う風に発表されましたから、私が、私皆さんが(?)答えたようなような例えば泥の信心と言ったような信心をね、成り行きを尊ぶとか大切にすると言ったようなのをそんなに安売りはしよる事ない。
だから皆さんも(?)じゃないと私は申しました。ね、それは信心はですね、合楽でおかげをまいりますと、簡単です、明瞭です、しかもおかげが確かです。という様なキャッチフレーズがございます。ね、だから合楽で例えば教えを頂きますと、ね、人間はとにかく土よりいでて土に還って行くのであるから、その道中とても土の心で生きるという事が本当の生き方なんだよと教えられる。
ですからどんな場合であってもその土の心を体得して土の心に徹していく行き方を身に着けていくという事が1番天地の道理にかのうた、おうた、しかも人間がもう必ず絶対お徳が受けられるおかげの世界に住む事ができれる言うなら生き方だという風にまあ解くわけ。ほお、なら土の心でっちゅうならもう黙って納めるという(?)な事ですね。と簡単です。ところがそれをいよいよ明瞭にしていく、自分の実際問題に当てはめてまいりますとどっこいそんな見やすいものでは無いことが分かってまいります。
ね、それを明瞭にしようとすればする程難しゅうなってくるんです。けれども、それを本気でその気になってくると楽しゅうなってくるんです。土の心に本当に徹しようという実験をですよね、お互いが本気でさせて頂きこれでこれに徹しようという事になると、言うなら信心の言うなら楽しみ喜びが頂けてくるようになるんです。
そこから限りない言うなら土の心と言う事になるのじゃあ無いでしょうか。皆が納得してその発表を聞かせてもろうてからね、実は今日今朝その合楽の目玉商品という事を頂いたんだけれどもご祈念中に頂いたのが、ね、あのさばの頭。さばを1匹、さばの頭のところをこうクローズアップして頂いた。(?)新鮮な活き活きとした目玉がもう活き活きと生きておるようなあの目玉のを、頂いたんです。
さばの目玉です。ね、ですから私は目玉商品という事にヒントを得てその事を聞いて頂いたんですけれども。さばという事は、昔からさばと言う字をこう佐田(サダ)さんの佐、人偏に左と書いて、ばは馬と言う字を書く。馬のお知らせは人間の誰しもが持っておる卑しい心とこう。馬を2つ(?)うまうまちゅう。ある教会の信者さんが合楽に信心のそれこそ悩みがあって参ってきたという。どういう悩みですかと。ある教会におかげ頂きよったけれども、自分の町にも教会があるのでそこにお参りをするようになりましたっちゅう。
そしたら、先生と先生が喧嘩されました大祭のときに。もう、私はどっちついていい(?)分からずにこれ、どういう、これ信心の私の悩みですが、ね、どちらが本当でしょうかというような質問でした。最初その事をお願いさせて頂きましたら馬を2匹頂きました。御神願に。ははあ、これは馬が2匹じゃけんうまうあちゅう事だよなと。ね、とにかく両方の先生が自分のうまうま、自分の生活に関わる信者であるから、言わばこれはおれん所の信者、これはこう、まあ喧嘩しなさって事になったんだから、まあそんな事は問題にせんでね。
ね、本当の信心を頂いてあなたがおかげ頂くことですよと申しましたら、それ以来当時の樺目にまいってくる。両方だから参らんくなった。そして樺目に参ってくるようになった。今でもまだ参って来よんなさいます。何10年前。時に頂いたのが今言いよる、あの馬。だから馬のお知らせを頂くと此処では、卑しい心と。人間がこれは誰しもがもっておる卑しい心だと。それを合楽的だと。
ね、これは、妙なもんと言うかまあ不思議なもんと言うのか、こう類は類をもって集まるという事がある。ああ人間それぞれ100人100様の顔色が違うように心も違うけれども、何とは無しに合楽にこうやって御神縁を頂かなければならない人は、結局合楽的な内容を善しに悪しにもっておると言う事になります。
そうなんです。ね、言うならば合楽的めぐりと当時は言っておりました。何十年前は、(?)するとね、いうなら合楽的めぐりを持っておる。汚い卑しい心である。ところが合楽理念が唱えられる様になりましたら、今まで卑しい事だ、汚い事だと思うておった事の大半はいや、むしろお礼を申し上げなければならない心であった事に気付かせてもらい、それを実行する事になると、はあ、自分のようなこんな汚い人間がと思うておったのが反対に神様に御の字をつけていただく事になってきた。
食物は、ね、これは食物訓にもありますように有り難く頂く心を忘れなとこう仰るように、ね、有り難く頂く心あらば触る事あたる事無いと仰る。これは、食べ物だけの事では無い。事柄でもそうなんだ。ね、だから悪い事を良い事というふうに頂く、ん、こじつけてじゃなくて、よくよくその心理と言うもの分からせて頂くとこれは有り難い事であったと気付かせてもろうて、御の字をつけて喜び安心して頂く事が出来る。
ね、それを(?)の言葉で最近合楽で言われるのは、人間が人間らしゅう生きてと言う風に申します。人間が人間らしゅう生きるという事。此処数1000年の宗教が様々に教えを説いてまいりました。けれどもそれを本当に極めようとすると、もう人間技ではとても出来そうにも無い修行が前途に横たわっておる、誤解である、十戒である。
ね、そういうところを乗り越えていかなければ本当の信心が求められんなら乗り越えていくという事がいよいよ進んでいくと結局は何と言うか(?)何やらかんやら分からんようになって、もういよいよ極めようとすると自殺するより他には無いという様なところに立ち至るのが過去の宗教です。中途半端なところにおれば問題じゃないだから極めようとすればです。うん、ね、。
私は、(?)で言うならば目玉商品というなら、ね、人間が人間らしゅう生きていけれるそしておかげが受けられる、そして徳が受けられる生き方が説かれてあるところじゃ無いかね。さばの目ん玉だよと言うて、また、ま、申しました事でございます。というて人間が人間らしゅうというて、言うならばそれこそ我情我欲にい、でええという事では決して無いのです。
ね、人間が人間らしい、人間が獣らしゅうというのじゃ無いです。人間が人間らしゅう生ききるのです。そこには、教祖は我情をとれ我欲をとれと欲を捨てよ、情を捨てよとは仰ってない。我情であり、我欲なのです。ね、そこにはもう間違いない我が身は神徳の中に生かされてある事実をね実感する事が出来るのです。そのご神徳の中に生かされてある喜びと言うのがです、私は信心の喜びと驚きだと思うです。
言うならば、恐れ入った生活が出来るのです。ね、喜びの生活が出来るのです。よし、痛い思いをしても自分の思う様にはならなくても、そこにご真意のあることを悟らせてもろうて、ご真意を分からせてもらう精進がそこから出来ていくのです。ね、痛いことであろうが、思う様になる、いや右と願って反対に反対に(?)なっていくような時であっても御神願有り難しという事になるのです。
御神愛として受けて行く事が出来る様になるのです。ね、そして暁には夢にも思うて居りませんでしたという様なおかげに展開してくるんです。本当の信心のおかげの世界、ね、合楽世界に住む事が出来るのです。神様にも喜んでもらうい私共も喜べれるおかげの世界です。ただ自分の願い事が成就したというのは神様の願いが反対かも分からん。
唯あんたの願い成就したと言うだけじゃないかと、そういうおかげでは無くてです。ね、言うならば、日々が信心の驚きと喜びに浸らせて頂けれるような信心を身に着けていきたい。それには信心の稽古です。ね、焦点が間違ってはならんです。それこそ今日の私どもの恵城、孫じゃないですけれどもね、これはもう確かにまだあんなに小さいとが(?)の山の上まで中腹まで登ったのですから、足があがらんごと痛かったじゃろうと思うんです。
だからもう僕は今日はああー、習字の稽古じゃばってんもう行かんとは言わん。ね、習字の稽古にやっぱり行ったと言う様にです。やはり稽古しておる事が楽しゅうなってくる、ね、夕べ遅かったから朝が起きれんという様な事じゃなくて、信心の稽古の楽しみ、喜びと言うものをいよいよ身につけさせて頂く、所まで行かなきゃ合楽(?)じゃないです。
参ったばってん何にも稽古が出来んじゃったという事が無い、合楽の場合は。必ず、その日その日の言うならば目玉商品があると。飛びつきたいような教えがある。ね、それを頂いて帰って生活の上にそれを頂いていこうとする精進。ね、信心の本当にあの金光教の信心は信心の德を受けることです。ね、今日は、行橋の(?)お月次祭でしたからみんなで参拝して参りました。
ほんで今度、ええっとふく、何日の日かね。え、24日の日が今度支部の結成が出来て初めての御大祭。ところがそのもう皆信者さん方がよりよりよってから、えらい華やかになるそうですとこういう。先だってええ、直方あの、(?)支部の御大祭に支部長がおかげ頂いてました。ね、そん時に成り行きを尊ぶとか、大切にするという事は、ね、今まで教えて頂いたけども此処にもう一つ説き足らなかったところがあった。
成り行きを尊ぶとか、大切にするという事はね、例えば10万の給料があるならば、10万以内で生活をするという事が成り行きを尊ぶ事だという風に頂いたんです。それに10万しか収入が無いのに11万の言うならば生活をしとったんでは成り行きを尊ぶという事にはならないよと。とにかく、身分相応の生きかたそのものが成り行きを尊ぶ事だ、大切にすることだという初めてその御理解を頂きましたのです。
そしたら、それからやっぱり何人にもその質問がありました。帰ってきたら直ぐ先生ある先生が言います。先生そのまあ、分相応という事ですが、ならお供えでん何でんやっぱ分相応にした方がいいでしょうか。とこういうわけ。そんな事があるもんか、お供えだけは、分不相応が良かばいと私が。今日もその支部長が参ってきて言うんですよ。どうも今度の御大祭をさせて頂くと、みんなのその勢いが華やかにええ、その今日(?)先生が言ってましたが。
もうとにかく、あの支部員でんしらんうちにええ、筑豊支部の大祭が小倉の教会に分かってからそれに先生方がお参りしたいっち言いよる。とこう。まあとにかく神様がこのまあ(?)広がっていっておる訳ですね。ほんでどうも初めてお祭りを仕えるのに、その、まあ華や、こう派手になりすぎては先だって直方で頂いた御理解のようにです。
分相応という事がんー、言われたが、もう本当にあのどんな風にしたら良いでしょうかっちゅうて今日相談がありました。
(?)今申しますようにね、それこそお供えは分相応じゃない、分不相応が良かばい。ね、というようにお祭りもです、ね。とにかく自分がこう派手にこうしようじゃなくて、己ずと集まってくる、ああ、己ずと例えば信者の思いがそういう事になっていくのなら、ね、それを言うならば、分不相応なとても支部の大祭には勿体無いような御大祭を仕えるよほんなことないと私は今日申しました事でございますけれどもね。
ね、帰りがけにあの行橋じゃない(?)と言うところにええ、(?)熱心に参ってくる信者がおります。(?)は近所だそうですから帰り道にそのこうして親先生が御大祭を仕えるからと言うことを、そのまあ、連絡ととりによったらしいんです。そん、今度私、支部長がいったところの(?)あに何とか
テープ途中
もう合楽じゃなかばってん親先生が見えてどこで御大祭があっとるけん早くお参りせにゃお参りせにゃといいよる所に丁度横山(ヨコヤマ)支部長が見えて、まあ神様のあなたがですね案内をくばんなさらんでも、もう神様が先に案内を頂いておった。もうどうでもまたおきおかげ頂きたいと思いますと言うてその人が今朝から頂いてお夢をここでお届けいたしました。
ね、それがもうまあ大きなこの蛇がね、2匹もう(?)そしてから私が見てやったらニコーってそれが笑うじゃないですか。ね蛇が笑うんです。気色の悪いでしょうね、蛇がニコって笑うんですから。そしたらある大きな男の方がね、鯉を今から取りに行くからお前も着いてこいと言われる。こういう大きな男の方。ところが鯉がいっぱい泳いでおるけど深くてもうその男が大きな方ですから入られるけれどもね、その入られんでテーブルの所に立っておったんです。
そしたらその鯉がペーンと跳ねて自分の立って見よるところに大きなおおやっと抱えれるような鯉が跳ね上がってきた。それを頂いたお知らせでございました、と言うのです。ね、めぐりと言えばまあ言うならば、ああ、蛇と言えばめぐりと教えられるが、段々めぐりもう(?)なっておる。もうめぐり(?)助けてくれんでニコッと笑いよる。
そこんところを、もう一押し此処では德の鯉のお知らせをお徳と言う。ね、ですから大きな偉大な男のについてね、その鯉を取りに、あのいう事を聞いてその鯉(?)まで行ったところが中々深くて入られないけれども鯉のほうがいうなら跳ね上がってそれを自分が頂く事が出来たという様なね、合楽には何かそういう信心があるようです。その気になれば。ですからね、お互いのめぐりという様なものでもですね、もうあのめぐりが次から次へと重なっていくときにはもういよいよめぐりそのものももう判事繁盛のときです。
だからそこで本気で言うならば神様任せにならせてもろうてお徳を受けていくという生き方を身につけていく。ね、お徳を受けるという事は右と願っても左、左と願っても右といった様な時をです。言うならばね、御神願有り難しとして受けていけれる信心こそがお徳を受けれる信心だと。ね、そういう信心の向こうにあるのがです、驚きと喜びの頂けれるおかげの世界、合楽世界。
ね、言うならば、夢にも思わなかったようなおかげの展開になってくるおかげであって本当のおかげであるという事。(?)右、左といちいち教えて下さって、はあ本当神様の仰る通りだとこう思っておったけれども、いよいよ言うならば幕内の相撲になったらどっこい神様が教えなさらん。信心が巧者になってきたらね、より有り難いものを与えたいのが親心である。
信心に言うならばまだ(?)の時にはまあ投げられされるような程度のおかげからです、ね、願っても願ってもね、いうなら右が左、左が右と言う様な時にこそ信心の喜びと驚きを感じられるようなね、信心をいうなら身につけたい。為には稽古です。今日はもう足がいとうて上がらんごとあると言うときにあっても、また走ってその手習いの方へ行ったという孫の事からね、信心にはそういう言うならば活き活きとした構えと言うか姿勢がいるように思います。
どうぞ、今毎朝のご祈念に参ってまいられますと、総代さん方のお届けの中に、ね、いよいよ来年は此処の15年の記念の御大祭。それに様々な事業がございます。ね、いよいよそれが成就致しますように。また1年超えれば教団にとっての1番大切な100年祭という記念祭がございます。それには、合楽からどうでも1000人参りのおかげが頂きたいという願いが総代幹部の方達からそういう話が起こってまいりました。
そして、毎日そのお届けが、どうぞ1000人参りのおかげが頂けます様にというお取次を願っておられますが、これは総代幹部だけの願いでなく、ね、合楽に御神縁を頂いておるそのす総信者の願いでも無からなければならない。為には、来年の15年の記念祭を目指してまたその次の年の100年祭を目指してのです。言うならば信心修行もまた出来なければならんと思います。どうぞ。